【ファドの神さまが降臨】アマリア ロドリゲスの妹に捧げる歌
リスボンにはイスラーム時代からの古い町並みが残っている。テージョ川に面したアルファマと呼ばれる地域だ。町の名にアラビア語の定冠詞"アル"がついていることにもイスラームの残滓が感じられる。
アルファマは、丘の上に迷路のような小道が張りめぐらされた街だ。少し歩くごとに角を曲がり、階段を上り、目線がかわって新しい景色と出会える。
そんな古い町にファドを聴きに来た。
ファドとはポルトガル独特の哀愁をおびた歌のこと。人生の悲喜こもごもをモチーフにしていて、ポルトガル語がわかれば結構じーんとくるらしい。 食事をしながら女たちが人生を唄うのを聴くものらしく、公演開始の8時より前にもちらほらと食事をしている客がいた。
8時を過ぎて、歌が始まってからも空いている席がいくつかあった。どれも9時過ぎに予約が入っているそうだ。
最初は「男のいうことを真にうけた私がわるいのか、キスは単なる挨拶なのか本気なのか」という深刻(?)なテーマをコミカルに歌う女性歌手だった。哀愁のファドというよりも陽気な演歌という感じだが、こういうトーンは珍しいらしい。色恋のテーマは悲しく歌うこともあっけらかんと歌うこともできるね。 歌っているのはこの店のオーナーで名をマリア ジョゼという。ファドの世界ではそれなりに知られた人だということだ。 次は一転してしんみりと歌う歌手が登場。
ファドは「過去を持つ愛情」という1956年に公開された映画の主題歌としてアマリア ロドリゲスが歌ったことによって世界に知られることになった。それまではポルトガル人だけがファドを楽しんでいたという。
歌聖アマリアの歌唱力はさすがに素晴らしく、20世紀末に亡くなってからもファドの神さまという位置づけにある。アマリアが修道女だったらリスボンの守護聖人に祀られるのではないかと思うほどの人気ぶりだ。
しかし若い頃のアマリアはかなりやんちゃだったらしい。あれはあばずれだという人もいる。そうであればこそ哀愁のファドを歌えるのかもしれないが。
明るい単焦点レンズを選んだ
さて、ぼくの後ろの席が空いていたので、狭い店で限られた範囲であるがぼくは自由に動いて撮影できた。
会場は暗いから高感度に強いカメラがほしいところだ。といってもファド撮影のためにフルサイズ一眼レフを持ち歩くわけにもいかない。結局いつものマイクロフォーサーズのGX7で撮影した。感度ISO1600にして、25mm F1.4ほか明るい単焦点レンズをつけた。
絞り開放でもシャッタースピードは1/30しかない。ファドは動作が少ないけれど、それでも結構被写体ブレをする。 夜9時をまわってから、老女と若い男性たち5人のグループがぼくの後の空いていた席を埋めた。この、年齢層がバラバラのへんなグループが酒と食事を食べ始めたことで、動きにくくなったぼくは歌手をヨリで撮ることにしてファインダーを覗いた。
しばらくして歌の合間に、オーナーが「ちょっと、話があるんだけど」とぼくを呼びに来た。 狭い店の物陰で、何の話だろう、といぶかっているぼくにオーナーは「あなたの後にいる年寄りの女性はセレステ ロドリゲスよ。アマリアの妹の」と囁いた。 なんということだろう。 ヘンなグループだと思っていたらファドの歌い手の一団だった。しかも最高の。若い男は夜も更けてからここで歌うのだそうだ。セレステは今日はお客として雰囲気を楽しんでいるが、ときおりこの店で歌うこともあるという。
右に座っているのがセレステ ロドリゲス。 90歳を過ぎて、いまも定期公演をされているそうだ。 このあと、一緒に記念写真を撮らせてもらった。
神さまに捧げる歌
ほとんどの客は外国人ツーリストだから、夜11時を過ぎると帰ってしまう。残っているのはぼくのほかに2組しかいない。
ファドはなかなか聴かせる歌だし、セレステと一緒に来た歌い手がどれほどのものかもぜひ聴いてみたかったが、いい加減疲れてきたから、ぼくも撮影を終えて帰ることにした。出番を待っている若い男は「帰るのかい」という顔をしてぼくを見た。
歌い手の近くでファドを聞き入っていた若いカップルも、ぼくと同時に店を出た。すると残りは一組か。もし最後の一組が帰ったらお客はだれもいなくなってしまうではないか。それでもあの男はファドを歌うのだろうか。 誰もいないところでも歌う、というのはバリ島の奉納舞踊と似ている。人間を相手にしているのではなく神さまに捧げる舞踊だから、観客がいなくてもキッチリ踊るのである。神さまはちゃんと見ているからね。
そして気がついた。店内にはいま神さまがいらしているではないか。アマリアの亡き今、セレステがいわば歌聖だ。そういえばこれまでの歌い手はみなセレステのほうを見て歌っていた。
そうか、お客はいなくても、神さまが聴いているのだから彼はちゃんと歌うのだな。その光景はかなり神々しい写真になりそうだ。と気がついたときにはすでにホテルに戻っていた。今日も幻の名作をつくってしまった。
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