センサーサイズを気にするより、自分の目のクオリティを気にするべき
フルサイズとマイクロフォーサーズはセンサーサイズが大きく違うが、それが原因で画質に優劣はあるのだろうか? という古典的なテーマを話す前に、より重要な話しがある。
それは、撮像素子や撮影用レンズと同じように、人間の目にもクオリティの優劣があるということだ。
一般に目のよしあしとは、視力のよしあしで語られることが多い。小学校の時に、どれだけ小さい文字が見えるかを検査して、視力1.2とか、0.8とか、乱視ありとか定められたあの視力だ。
これって不思議に思わない?
撮影用レンズでいえば、単に解像力を計っているだけだ。
撮影用レンズのよしあしは解像力だけではなく、コントラストが高いか低いか、発色はよいか、ボケはきれいか、いろんな点から語られるはずだ。ボケだって単純に背景のボケ方だけでなく、ボケの立ち上がりのなだらかさも重要だ。果ては「味がある」など、数値に置きかえられない基準で語られることも多い。
実はね、人間の目だって同じなのだ。
人間の目も個々の性能の差が大きい
人間の目も、意外なほど個々の性能の差が大きい。
ある人の目は、発色がきれいで、コントラストが高くて暗部の描写もなめらかだし、ピントもキリッとしている。ニコンのレンズで言えば最新型のAF-S 24-70mm/F2.8VRみたいなもので、オートフォーカスも早い素晴らしいレンズだ。25万円もするレンズだから写りは抜群だ(と思う)。
けれども別の人の目は、色は飽和しがちで、コントラストは一見高いけどよく見ると中間トーンが少なくてパサパサ、線が太くておおざっぱ、そして合焦スピードが遅い。まるでキットの安レンズみたいなものだ。
さらに述べると、眼球を通った光は脳によって認識され、景色として「見える」ようになる。言い換えれば脳は画像エンジンの役割を果たしている。この画像エンジンの能力は人によって物凄く違う。
つまるところ、同じ景色を見て感動する人もいれば無感動な人がいるのは、感受性の違い以前に眼球と脳の性能が各々でぜんぜん異なるからだ。同じ景色を前にして、みんな違うように見ているのである。ちょうど人によって味覚が違い、同じものを食べて辛く感じる人もいればそうでない人もいるように。
天才画家は、優れた天然のレンズと画像エンジンを持って母親から生まれてくるのだ。セザンヌのような絵を描く人は、本当にああいう風に見えて(光を感じて)いるのだと思う。もちろん、ハードのクオリティがよいからセンスも磨かれるということもある。
システムカメラと違って、自分の眼球は交換できないから気がつきにくいかもしれないけど、人によって目のクオリティは事ほど左様に違うんだ。ぼくは20代の時に公立中学校の美術の教師を短期間したことがあって、一学年の生徒250人を俯瞰してみてそれに気がついた。人間というのはこんなに皆それぞれ違うものなのだなあ。そのうち1〜3人は素晴らしく優秀なハードを生まれながらに持っていた。
目の性能を維持しよう
さて、持って生まれた性能はいかんともしがたいが、幸い人間の身体は鍛錬すればしただけクオリティは向上する。人間の目も、カメラのレンズと同じようにメンテナンスをしっかりすれば描写力が向上するし、いい加減に扱えば偏芯したズームレンズみたいに画質は劣化する。
というわけで、カメラの撮像素子の大きさを気にするよりも、心を穏やかに気持ちよく生活して、おいしくて新鮮な食べ物を食べて、毎日を健やかに過ごそう。毎日ヨガと瞑想をすると尚いい。その方がよい写真を撮れること間違い無しだ。
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