聖フランシスコ ザビエル、故郷のハビエル城からはるばる日本へ渡る
パンプローナから車で東へ1時間ほど走った、ナバラ州サングエサという小さな町に、ロマネスク様式のファサードで有名なサンタマリア教会がある。
サンタマリア教会はもともとは小さな建物だったが、巨大なゴシック様式の尖塔が増築され、遠くからでも一目でそれとわかる印象的な姿になった。
増築された塔はどうみてもロマネスク様式の教会には不釣り合いな存在感があり、とにかく大きい。大地震が起きたら倒壊すること間違いなしだ。今なら建築申請をしても通らないだろう。
サンタマリア教会の見どころはロマネスクのファサードで、塔は建築物として重要ではないのだが、そのヘンな姿からどうしても塔に目がいってしまう。
町の外にヤマグチという名のホテル兼レストランがあった。
こんな田舎でなぜヤマグチなのか? というと、パンプローナ市と山口市が姉妹都市であることに由来すると思われる。パンプローナ市にはパルケ ヤマグチという名の大きな公園がある。
ちょうど午後1時だったので、ヤマグチで昼食をとることにした。レストランの内装は典型的なスペインの田舎のレストランのそれで、日本を連想させるものはひとつもなかった。
ハビエル城へ
ハビエル村はここから約8km。
道路脇にカミノ デ サンティアゴの標識が立っている。
途中の景色。麦畑が広がっている。
サングエサからハビエルまでの道端には十字架の道標があった。
ハビエル村が見えてきた。
ハビエル城。
フランシスコ ザビエルはこの城で生まれた。
彼はこの地方の貴族の息子で、19歳で哲学を学ぶためにパリのソルボンヌ大学に入学するまでをここで育った。しかし寄宿舎で同じバスク人のイグナチオ デ ロヨラに影響を受けて聖職者を志すようになった。さらにはアジアの話を吹き込まれ、広い世界を見たいと思ったザビエルはアジアに赴く決心をした。
城の礼拝堂には「1506年4月7日 聖フランシスコ ザビエルはここで生まれた」と標された敷石がある。
ザビエルはスペイン語か?
ザビエルはバスク語ではシャビエルという。
そしてスペイン語で「ハビエル」といい、文字で Francisco de Xavier と書く。その彼を「ザビエル」と呼ぶのはポルトガル語読みだろう。ザビエルはイエズス会の人であり、熱心なイエズス会の信者だったポルトガル王ジョアン3世の依頼で東洋に派遣された。当時はポルトガルとスペインの仲がよくなく(今もそうだが)、ザビエルはポルトガル人と行動を共にしていた。
いずれにせよスペインでは知られた聖人である。ハビエル城は、現在は博物館として公開されていて、訪れる者はスペイン人のほかに、インド人か、日本人など所縁の国の人が多い。
面白すぎるザビエル城内の展示
城内に展示される絵画。タイトルは「京都への旅」
フランシスコ ザビエルが、天皇に会うために山口から京都へ向かう場面を描いた作品。馬に乗っているのは堺の豪商、日比屋了珪(ひびやりょうけい)。描かれたのは1692年。
しかーし、馬上の人はどうみてもインド人にしか見えない。風景も熱帯だ。どうみてもインドの景色だ。17世紀のスペイン人にとって日本はこんなイメージだったのだろうか。
こちらは山口に到着したザビエルのジオラマ。
出迎えている人々は中国人の風貌だし、石の城壁も大陸風だ。このジオラマでただひとつ日本を感じさせてくれるのは白壁の城だが、これはザビエルが日本にいた時代よりずっと後の建築様式で、ザビエルは白壁の城を見たことはない。この博物館の展示品は面白すぎる。
城の塔から見た景色。
ザビエルはこの景色を見て育ったのか。
遠くの山が印象的だった。
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