神々が敬う智慧の人

ネパール

カトマンドゥ東方の丘陵に建つチャングナラヤン寺院は、ビシュヌ神を祀るヒンドゥー教の古刹で、開基は4世紀にさかのぼる。

ここも、ボーダナートと同様にユネスコの世界遺産に登録されている。

こうして仏教とヒンドゥー教の寺院を続けて参詣すると、カトマンドゥの人々が、日本人と同じく神仏習合の宗教観を持っていることが分かる。もっともこちらは仏教と神道ではなく、仏教とヒンドゥー教ではあるが。

上の絵は、ある仏教寺院の壁画だ。
右から3人目がお釈迦さま。インドは暑いから仏弟子がうちわで扇いでいる。
歩く先には、ヒンドゥー教三大神がいる。

左端の色白なのが繁栄神ビシュヌ、顔が4つあるのが創造神ブラフマー。それぞれ、ほうきで道を掃き清めている。ほうきはこちらの伝統的なもので、柄がなくて短いから、掃くときは大きく腰を曲げるかしゃがむかしなければならないが、神々は立ったままほうきを使っている。神さま仕様のほうきだろうか。

お釈迦さまの先導をしているのは破壊神シヴァ。
仏伝には、遊行中のお釈迦さまが町に入る際に、住民が道路を掃くシーンがよく描かれている。ここでは神々が道の清掃をしている。それは、神々は智慧を敬うからだ。智慧がなくては文化も文明もないし、認識できなければ愛も慈悲もない。

仏教は、ネパール・中国・日本など、伝えられた先で土地の神々と宥和して発展してきた。ちょど、この絵のように。

日本でも、江戸時代まで、人々は神仏を区別せず共に敬ってきた。
諏訪大社のご神体がかつて曼荼羅だったように、日本神話以来の由緒ある神社のご神体がお釈迦さまゆかりの文物だったことが少なくない。

その伝統に反して、明治政府は神仏判然令を発して両者を区別し、神道を国教の地位に置いた。これによって古くからの貴重な伽藍や宝物が多く失われてしまった。

第二次世界大戦後はこの反省から、GHQ(連合軍総司令部)は日本国憲法に政教分離を定めて、日本政府が宗教に口を挟まないようにした。それはそれでよいことではあるが、何度も政治に翻弄されたことで、日本人は神仏との向き合い方が分からなくなって、智慧ではなく自分優先になってきていると感じることがある。

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Posted by ariga masahiro