誰がために写真を撮る
朝日新聞の書評欄で、横尾忠則が「画家に、誰のために絵を描いているのかと尋ねたら、世のため人のためと答える人はまずいない。ほとんどの人は自分のためだと答えるだろう」と書いていた。
そのくだりを読んで、ぼくは誰のために写真を撮っているのだろう、ふと考えてしまった。
ぼくは子供の頃から絵が好きで、高校生の頃は将来イラストレイターになりたいと思っていたし、そうでなければ画家か、マンガ家か、いずれにせよ絵を描いて暮らしたいと思っていた。
いま、写真を撮って暮らしている。それは絵筆をカメラに持ち替えただけで、気持ちの上では絵を描いるのと何も変わらない。だからぼくは画材店が好きで、絵の具が並んでいる棚を見ているのが楽しい。ウィンザーアンドニュートンとか、スタビロとか、画材メーカーの名前には暖かみを感じる、ニコンやフジフィルムのような硬質な響きとは違い、繊細で染み通ってくる何かがある。
ぼくが絵を描いていたのは、それが好きだったから。「何かのために」などと考えたこともなかった。子供だったので。けれども社会で美術家として身を立てている画家なら、もしかしたら「自分のために描いている」と明確に答えられるのだろうか。
セビーリャで会ったフラメンコの踊り手は「自分のために踊っている」と明確に答えていた。スペイン人らしい答えだと思って聞いていたが、もしかしたらアーティストはそういうものなのだろうか。舞台上の踊り手さんたちはすごい迫力だが、踊りの芯には自分がいるのだろうか。
写真は、報道や広告などいろんな分野があるが、それぞれ考え方も仕事の進め方もまったく違う。「誰のために撮っているのか」と聞かれたら、ジャーナリズムの人なら「世のため人のため」かもしれないし、広告分野だったら「クライアントの要求に応えるため」かもしれない。仕事の内容によってはその両方を兼ねることもあるかもしれない。
仕事として撮影している以上、「写真が好きだから」だけで成りたっているわけではないことは間違いない。
では、ぼくは誰のために写真を撮っているのだろう。
「自分のため」でない。そんな風に考えたことがないからね。ぼくの写真が「世のため人のため」になればいいけれど、カメラを持つときはそんなことは考えない。ファインダーを覗いているときは「空」な気持ちでいるからだ。この件はもう少しよく考えてみよう。
D7000
AF-S DX 35/1.8
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