「本当の日本人」はどんな人なのかを、日本で最も古い神社の前で考えた
ぼくの名字は有賀という。そう多くはない名字で、自己紹介をするとまれに「はじめて聞いた名字です」と言われることがある。
有賀という名字の有名人は少ない。先日亡くなった元女子アナの有賀さつきか、戦艦大和の最後の艦長有賀大佐くらいかな。どっちも誰でも知ってる有名人ではないな。それから銀座の有賀写真館という写真業界では大変有名な写真館があって、業界で自己紹介すると「あの有賀さんの関係者ですか」と頻繁に尋ねられるがぼくとはぜんぜん関係ない。
有賀という名字は信州に多い名字で、ぼくの祖父は諏訪の出身だった。家は諏訪大社の上社近くにあり、有賀家ご先祖さまは今も諏訪大社でお護りされている。
諏訪には縄文文化のよすがが残る
諏訪は、東北から九州まで日本列島のほぼ全域が弥生文化に染まった時代になっても、最後まで縄文文化が残った土地だ。
上社の祭神はタケミナカタノカミだが、もともとの神はミシャグチといって、日本の先住民の神さまだったとも言われている。で、縄文か、さらにそれ以前の神さまを祭ったのが諏訪大社なので、そこと微かながらも関係のあるぼくは、ピュアな日本人だと自負しているのさ。
上の写真は、諏訪大社の上社の鳥居で、この奥に有賀家の家があった。土地は、祖父が亡くなった後に諏訪大社に買ってもらった。
背景の山は、上社のご神体の御山。
うちはご神体のふもとで生活していたのだなあ。しかしぼくは自分が縄文の血をどれだけ受け継いでいるかは知らない。
それから樹木に埋もれて見えないが、ご神体のふもとには臨済宗法華寺という古刹があって、境内に忠臣蔵で有名な吉良上野介の養嗣子だった吉良義周の墓がおかれている。吉良家は赤穂浪士の討ち入りの後にお家お取りつぶしになってしまい、吉良義周は法華寺に預けられて失意のうちに亡くなったそうだ。
忠臣蔵に登場する本当の日本人たち
さて、本当の日本人とはどのような人のことをいうのだろうか。
「日本人とは何か」と考えたときにぼくがいつも思い出すのは、赤穂四十七士の一人、武林唯七だ。吉良邸討ち入りの際に表門を受け持ち、明け方近くになってみごと吉良上野介の首を討ち取った青年である。その名に覚えはなくとも忠臣蔵を見たことがあれば「あの若者か」と分かるだろう。
で、堀部安兵衛でも大高源五でもなく、はたまた吉良でもなく、なぜ武林唯七を思い出すのかというと、それは彼の祖父が杭州の出身だからだ。
杭州から赤穂へ移ってきた武林
中国浙江省の省都、杭州は「上に天国あり、下に杭州あり」という成句があるほど風光明媚な都市として知られている。中国で(というか地上で)いちばん美しい町なのだそうだ。下の写真はぼくが杭州に行ったときに撮ったヒトコマ。
杭州の町は古くは武林と呼ばれ、現在も北部にその地名が残っている。武林唯七の祖父は孟二寛といって、その武林出身だった。
孟二寛は明国に仕える医師だった。しかし明国は、北方からあらわれた騎馬民族に滅ぼされた。孟二寛がどのような理由で日本に渡ったのかは諸説あり判然としない。この時代、日本はすでに鎖国をして外国人の渡来は禁止されていたが、徳川幕府は明国からの亡命者を保護し、少なからぬ明の遺臣が日本に渡ってきたともいう。
ともかく孟二寛は医術の腕を見込まれて播州浅野家のもとで士分に取り立てられた。その際に武林を苗字として名のっている。
そしてその孫、武林唯七は、浅野家の恩に報いるために自ら願い出て討ち入りに参加した。人間の運命や精神は、まったく想像もつかないほどダイナミックに変化していくものだ。
本当の日本人とは
近年、縄文人の骨に残るDNAを解析したところ、縄文人とDNAがもっとも近いのは、バイカル湖付近に住むモンゴルのブリヤート氏族なのだそうだ。中国人や朝鮮人ではなかった。なんと、もっとも古い日本人といえる縄文人は、チンギスハーンの子孫たちと近い血縁関係なのだった。
ということは、ぼくの遠い親戚はシベリアにいるのかな?
さて、本当の日本人とはなんだろう?
はるか昔に南方から黒潮にのって移り住んできた人たちや、数千年前に大陸から渡ってきた渡来人など、東西南北からいろんな民族や、神々が移り住んで成立したのが日本だ。純粋な日本人というのはチャンプルーな日本人のことだ。だから、本当の日本人とは何かとは簡単には定義づけられないな。
あえていうなら、自分が日本人だと思っていればその人は日本人なのだ。簡単だね。
浅野内匠頭の家来、武林唯七は、まことの日本人であった。
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